細川紙は、楮(こうぞ)を原料とした伝統的な手漉き和紙で、現在は小川町と東秩父村で伝承されています。未晒しの純楮紙ならではの強靭さと、素朴ながらつややかな光沢をもち、地合がしまり紙面が毛羽立ちにくく、剛直で雅味に富んだ味わいがあります。
細川紙の製作技術は昭和53年に国の重要文化財に指定され、平成26年にユネスコの無形文化遺産代表一覧表に記載されました。指定要件は次のとおりです。
1 原料は、こうぞのみであること。
2 伝統的な製法と製作用具によること。
(1)白皮作業を行い煮熟には草木灰またはソーダ灰を使用すること。
(2)薬品漂白は行わず、填料を紙料に添加しないこと。
(3)叩解は、手打ちまたはこれに準じた方法で行うこと。
(4)抄造は、「ねり」にとろろあおいを用い、竹簀による流漉きであること。
(5)板干しまたは鉄板による乾燥であること。
3 伝統的な細川紙の色沢、地合等の特質を保持すること。細川紙は、紀州高野山の細川村(現在の和歌山県高野町)で漉かれていた細川奉書の技術が、江戸時代中期頃に江戸に近い小川周辺に入ってきたものといわれています。もともとこの地域でも紙漉きが行われており、その紙が細川紙に似ていたためその名が使われるようになったのかもしれません。江戸の商家や町方・村方での帳面用紙、庶民の生活必需品として好まれ、見た目の美しさもさることながら紙そのものの強靭性が求められました。
明治以降も帳面・台帳用紙として広く用いられましたが、戦時中は砲兵紙や気球紙などの軍需品としても使われました。
戦後の高度経済成長期を経て生活様式等の変化により細川紙の需要も大きく減少しました。
小川町周辺では細川紙以外にも障子紙や蚕卵原紙、大和塵紙など多くの種類の和紙が漉かれ、また、細川紙の名で知られる以前から紙漉きが行われていました。
宝亀5年(774)の正倉院文書に武蔵国から紙が納められていたとあり、承和8年(841)の太政官符によると現在の小川町が属していたと考えられる男衾郡の郡司が大量の紙を納めていることから、この地域で漉かれていた可能性があります。
中世の記録はありませんが、江戸時代初期の検地帳には原料である楮が数多く把握されています。江戸が経済の中心地として繁栄すると「山物」「小川紙」としてその名が知られ、和紙の一大産地に発展しました。